光明寺とは
- 宗名
- 曹洞宗(そうとうしゅう)
- 本寺
- 遠田郡田尻町(現大崎市) 百峯山 東溪寺(通幻派)
- 創建
- 永禄5年(1562)
- 本尊
- 釈迦牟尼仏
- 本山
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永平寺(えいへいじ) 道元禅師(どうげんぜんじ)開山・福井県吉田郡
總持寺(そうじじ) 瑩山禅師(けいざんぜんじ)開山・横浜市鶴見区
- 山号
- 斗瑩山(とけいざん)
- 開山
- 東渓寺6世 異庵全秀大和尚
- 住職
- 住職 伊藤守弘
副住職 伊藤大輝
- 沿革
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以前、当山前を流れる新江川の底から土器の破片が発見されたが、現在その遺跡を調査中である。それによると、「この丘陵地帯には、多数の遺跡(小野横穴古墳群・朽木橋古墳群・宮沢遺跡等)が存在している。このことは、古墳時代末期・奈良・平安時代にかけて、この地域が比較的安定した社会環境にあったと推定される。」とある。
光明寺が創建される以前(寛正3年・1462年頃)、長岡村荒谷の地に安養寺(宗派不明)なる寺が存在していたことが、尾松村稲屋敷八所権現の鰐口に銘が残っている。
開山大和尚が光明寺開山の際、土地神として京都の伏見稲荷から分身を勧請しお祀りしたのが現在の斗瑩稲荷神社であるが、それ以前からこの地には狐をお祀りした小社が在ったという。それは、源義経が平泉に落ちのびるとき、下臣が狐に身をかえて道案内しこの地に落ち着いた。その時義経が小社を建て「正一位左衛門尉四郎稲荷大明神」を授けたという。狐穴・小社は修復し現存している。又、宝暦・明和年間(1751~71)当時の住職東海和尚は、付近の岩穴にすみついた狐に左衛門の名を付けて可愛がったという。
寺宝は、仏画・仏像・墨蹟等多数蔵していたというが、大正10年6月23日に大火に遇い数体の仏像以外全て焼失した。又、幕末の剣豪千葉周作一族の墓がある。更に、河北展・文展無監査、勲五等瑞宝章の渋谷栄太郎氏の絵画三点、明治以降の禅師墨蹟が数点ある。
昭和63年薬師堂再建し、本尊薬師瑠璃光如来を修復。脇仏に十一面観世音菩薩を修復・北辰妙見大菩薩新調した。